こんにちはシロです。
あることがきっかけで、僕は17年ほど前から毎日、瞑想しています。
僕にとっては瞑想は、もう生活と切り離すことができないものとなりました。
そもそもの僕の瞑想目的ではありませんが、副次的な効果として、この17年間は検査以外は病院のお世話になったことがありません。
また、この新型コロナウィルスのため、もうじき半年間になる外出自粛でも、精神もカラダの調子も、とても安定しています。
最近では、日本でもマインドフルネスが話題になるようになりましたね。
「でも、日本には昔からマインドフルネスに似たような瞑想や坐禅があるよねぇ。これらはいったい何が違うの?」
こんな疑問をもつ方も多いのではないでしょうか。
この記事では、マインドフルネスや瞑想、坐禅、これらの意味やその起源、方法、目的や効果の違いについて、瞑想歴17年のシロが解説してゆきます。
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マインドフルネスと瞑想と坐禅の違い
2010年代から日本でも知られるようになったマインドフルネス、アップル創始者のスティーブジョブズが実践していたことでも有名になりました。
米国ではグーグルやフェイスブックなどでもストレスの軽減や仕事の効率を向上させるために、マインドフルネスが取り入れられて話題となりました。
マインドフルネスについては、その効果についても、さまざまな研究がなされており、いまなお世界で注目をあつめています。
マインドフルネスとそのほかの瞑想、坐禅が異なる点は、主にはその目的が異なるところにあります。
では、それぞれの違いについて見てゆきましょう。
米国発祥のマインドフルネスは現代版の瞑想
米国発祥のマインドフルネスは、アメリカの分子生物学者ジョン・カバット・ジンが、もともと仏教にあった瞑想から宗教色を取り払って、ストレス低減法として医療用に考案したものでした。
では、マインドフルネス、瞑想、坐禅の起源については、どのような違いがあるのか見てみましょう。
①日本の禅やヴィッパサナー瞑想をもとにしたマインドフルネス
マインドフルネスは、日本の禅の坐禅やテーラワーダ仏教(スリランカやミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスなどに伝わった南伝仏教)のヴィッパサナー瞑想法をもとにして、現代人にも気軽に実践できるようにアレンジされた瞑想法です。
②古来から世界の各地で続けられてきた瞑想
いっぽうで、「瞑想」は字義的には意味が幅が広く、古くは紀元前13世紀にはインドのバラモン教、そしてヒンドゥー教でも、すでに実践されていました。その後に興った仏教がそれを受け継ぎ、現代にいたります。
しかし、「瞑想」はヒンドゥー教や仏教の専売特許ではありません。
キリスト教ではコンテンプレーション、日本語では黙想・観想といわれて、古くから祈りの際に取り入れられてきました。
イスラム教の神秘主義であるスーフィズムでは、その独特な瞑想方法によって神と一体となることが崇高な目的とされています。
③中国仏教から伝わった日本の坐禅
5世紀初めにインドから中国へ伝わった瞑想法は、中国のなかで長いあいだ熟成され、その後13世紀になって、道元、栄西らによって日本に伝えられたのが、日本の禅です。
インドのパーリー語で jhāna(ジャーナ)が中国に渡ってshàn(シャン)となり、日本にたどり着くと zen (ゼン)となりました。
元をたどれば、日本の坐禅もインドの古代宗教に端を発しているのです。
現代人が取り組みやすいマインドフルネス
マインドフルネスがこのように急激に世界へ広まったのは、だれでもすぐに実践できるという、その気軽さが理由のひとつにあげられます。
では、その瞑想方法の違いについて見てゆきます。
①宗教色をなくして万人向けにアレンジされたマインドフルネス
マインドフルネスは坐禅やヴィッパサナー瞑想をもとに考案されましが、もともとが医療を目的としていたため、宗教色をいっさい排除したかたちでプログラムされました。
ですから、儀式的なところや思想が入り込んでいないため、どんな人にでも受け入れられるようになっています。
そのシンプルな方法は:
- 姿勢を正してイスに座る
- 背筋を伸ばす
- 目を閉じるか、半眼で斜め下を見る
- 自然な呼吸を続けて、その呼吸に意識を集中する
- 想念が生じたら、呼吸に意識をもどす
- 「今」にあることができればOK
簡単ですね。
②瞑想の方法は千差万別
つづいて「瞑想」の方法ですが、「瞑想」といっても、マインドフルネスも坐禅も「瞑想」の一つといえますし、そのほかにも数多くの瞑想方法が世の中にはあります。
たとえば、
- ヴィッパサナー瞑想
- サマタ瞑想
- 呼吸に集中する瞑想
- 身体感覚に意識を向ける瞑想
- 数をかぞえながら意識を集中させる瞑想
- 歩きながら身体の動く感覚に意識を集中させる瞑想
- 浮かんでは消える想念を俯瞰する瞑想...など
瞑想をする人たちは、それぞれ自分に合った瞑想方法をみつけて実践しています。
③インドのジャーナを受けつぐ坐禅はトラディショナル
座禅の方法は宗派によっても多少異なりますが、おおよそつぎの通りです。
- 結跏趺坐に足を組んで座る。できない人は片足でもよい(半跏趺坐)
- 右手のひらに左手をのせ、親指どうしをかるく触れさせて組む
- 組んだ手を足の上に置く
- 背筋を伸ばし、あごを引く
- 頭が身体の重心にのるように、体と腰を安定させる
- 半眼に開き、斜め下を見る
- 肩の力を抜く
- 鼻から息を吸い、口から吐く
- 腹式呼吸で、これを一呼吸づつ数えながら繰り返す
- 呼吸が整ったら鼻呼吸に戻し、坐禅を続ける
これだけではなく、禅の場合は生活のすべてが禅の修行の場となります。
効果を目的としているマインドフルネス
マインドフルネス、瞑想、坐禅を実践している人たちには、どのような目的があるのでしょうか。
こんどはその目的について見てゆきます。
①実用的な効果を求めるマインドフルネス
マインドフルネスは、考案されたときから、その目的は実利的なものです。
- さまざまな治療プログラムやセラピー
- ストレスの軽減
- 不安の軽減
- 集中力の向上
- 仕事の効率を上げる
- 生活の質の向上
- 免疫力を上げる...など
②瞑想の目的はひとそれぞれ
数多くの方法が存在する「瞑想」では、それを実践する人によっても、その目的はそれぞれ異なります。
- 精神を安定させたい
- 仕事の効率を上げたい
- 自己啓発のため
- 「自分」とは何かを知りたい
- 「真理」を探究したい
- 「悟り」を開きたい
これらはそのほんの一部にすぎないでしょう。
③坐ること自体を目的とする坐禅
坐禅には目的がありません。
坐ること自体が坐禅の目的とされています。
これは少々哲学的であり、ふつうに考えれば、
「じゃぁ、なんでただ座ってんの?」
となります。
ここからは僕個人の考えですが、そうはいっても禅に入る人たちの目的は「悟り」にあり、禅の目的が「悟り」であれば、坐禅という禅修行も「悟り」を目的としているはずです。
では、なぜ禅では「悟りのために坐禅する」といわないのでしょう?
それは、そこには難題があるからです。
なぜなら「悟り」とは、「真実」を理屈ではなく体験を通じて知ることであり、その「真実」とは「自己」などこの世にはもともとない、ということだからです。
ですから、坐禅に目的をもつということは、その目的をもっている主体としての「自己」がそこにいることであり、坐禅に目的がある限り、「自己」がないという「真実」に達することができないのです。
禅問答のように話しがややこしくなりましたので、この話しはおしまいにして、ここで道元禅師の残した言葉をご紹介しておきます。何かのヒントになるはずです。
仏道をならうというは、自己をならうなり
自己をならうというは、自己をわするるなり
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり
万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり
(正法眼蔵 現成公案)
ということで、とにかく禅は深~いのです。
マインドフルネス・瞑想・坐禅の効果とは
つぎに、それぞれの方法で瞑想を続けた場合の効果について見てゆきます。
①ストレス軽減を期待するマインドフルネス
マインドフルネスはそもそも医療を目的として考案されたものです。
ですから、いまでもマインドフルネスを実践する人たちの目的は実用的であり、生活の質の向上に焦点を当てています。
マインドフルネスを実践することで得られるとされる効果は:
- リラックス効果
- ストレスの軽減
- ネガティブ思考の軽減
- 集中力や注意力が高まる
- 仕事の効率が上がる
- 精神が安定して心に余裕ができる...など
②瞑想の効果は目的別にひとそれぞれ異なる
「瞑想」を実践している人たちは、それぞれに異なった目的をもっており、したがって、その効果についても千差万別といえます。
しかし、その目的は違っていても、副次的な効果としては、マインドフルネスと同等の効果を得ることはできるでしょう。
③効果を求めない坐禅
そもそも坐禅の場合は、坐禅をすることによっての効果を求めていません。
「瞑想」と同様に、副次的な効果はあるはずですが、禅の修行者たちは、そういったことには関心をもたないでしょう。
似て非なるマインドフルネスと瞑想と坐禅
ここまで、マインドフルネスと瞑想と坐禅の違いについて見てきました。
それぞれの原点は同じところからきているにもかかわらず、目的は全く異なることが、理解していただけたでしょうか。
マインドフルネスは、あくまでも人間としての「自己」の現実的な問題を解決するための手法として取り入れられています。
対して、禅の坐禅は、その問題を抱えた「自己」を脱落させる、つまり「問題を抱えている自分自体が、もともと存在しない」ということを悟るためのものです。
マインドフルネスが「現世の実利」であるのに対して、坐禅は「永久の真実の探求」という、まったく似て非なるものなのです。
とはいっても、この現代社会で、私たちは毎日、つねに溢れる情報を処理し続け、人間関係に悩まされ、過去に悔い、未来におびえて生きています。
一日のうちの10分でもよいので、時間をつくり、マインドフルネスを実践して心を開放することは、ウェルネスな生活を過ごすためには有意義なことでしょう。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。